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クロアチア王国 (925年 - 1102年) : ウィキペディア日本語版
クロアチア王国 (925年 - 1102年)

クロアチア王国(、)とは、中央ヨーロッパに存在した国家である。王国の支配領域はイストリア半島の大部分とダルマチア地方の海岸部の一部を除くクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナの一部で構成され、およそ2世紀に渡って主権国家として存続していた。
クロアチア王国は恒常的な首都を持たず、君主が変わるたびに王宮の位置も変化していた。ニンビオグラードクニンシベニクソリンの5つの都市が「王の都市」の称号を得ていたと伝えられている〔Ferdo Šišić, Povijest Hrvata; pregled povijesti hrvatskog naroda 600. - 1918., Zagreb ISBN 953-214-197-9〕。
中世クロアチア王国が存在した時代はブルガリア人ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ハンガリー人との間に起きた様々な衝突と和平、ヴェネツィア共和国とのアドリア海東海岸の支配権を巡る競争によって特徴付けられる。最初の国王であるはハンガリーとブルガリアの侵入を撃退するが、王権は不安定であり、彼の死後に内紛によってクロアチアは衰退する〔金原「中世のバルカン」『バルカン史』、92-93頁〕。11世紀後半にクロアチア王国はビザンツ帝国の支配の崩壊を利用して大部分のダルマチアの海岸部の都市を制圧した。この時代にクロアチア王国はペタル・クレシミル4世ドミタル・ズヴォニミルの統治下で最盛期を迎える。
ズヴォニミルの死後に起きた王位を巡る十数年の抗争とグヴォズドの戦いを経て、クロアチア王位はアールパード朝ハンガリー王国に渡る。ハンガリー王カールマーン1世1102年にビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王」として戴冠され、2つの王国は1つの王冠の元に統合される〔Larousse online encyclopedia, ''Histoire de la Croatie'': "Liée désormais à la Hongrie par une union personnelle, la Croatie, pendant huit siècles, formera sous la couronne de saint Étienne un royaume particulier ayant son ban et sa diète." 〕〔Clifford J. Rogers: The Oxford Encyclopedia of Medieval Warfare and Military Technology , Volume 1, Oxford University Press, 2010, p. 293〕〔Kristó Gyula: A magyar–horvát perszonálunió kialakulása [The formation of Croatian-Hungarian personal union] (in Hungarian)〕。2つの王国の関係の実像は19世紀に論争の原因となる。現代のクロアチアとハンガリーの歴史学者の多くは、1102年以降のクロアチア王国とハンガリー王国の関係を共通の王を頂く同君連合として捉えている〔Barna Mezey: Magyar alkotmánytörténet, Budapest, 1995, p. 66〕。
== 名称 ==
当初は「クロアチア人の王国(、)」が公式の名称とされていたが
〔Ferdo Šišić: Povijest Hrvata u vrijeme narodnih vladara , p. 651〕、時代を経て「クロアチア王国(Regnum Croatiae;〔''Monumenta spectantia historiam Slavorum meridionalium'', Edidit Academia Scienciarum et Artium Slavorum Meridionalium vol VIII, Zagreb, 1877, p. 199〕 Kraljevina Hrvatska)」の名称が正式に使用されるようになった〔。ペタル・クレシミル4世がビザンツ帝国の支配下に置かれていたダルマチア地方のテマの沿岸部の都市の支配権を獲得したことをきっかけに、1060年以降は「クロアチア・ダルマチア王国(、)」の名称が公的に使用される。1091年にステファン2世が没するまで、一連の王国の名称は使われる〔Lujo Margetić: Hrvatska i Crkva u srednjem vijeku, Pravnopovijesne i povijesne studije , Rijeka, 2000, p. 88-92〕〔Lujo Margetić: Regnum Croatiae et Dalmatiae u doba Stjepana II. , p. 19〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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